こんにちは、ぶろじんです。
今日は2017年1月15日に亡くなられた元サッカー選手の木之本興三さんについてです。
木之本興三さんと言えば日本のプロサッカーリーグの創設に力を尽くしてこられた方ですね。
現在のJリーグが存在しているのは木之本さんの努力によるところが大きいと言えるでしょう。
その経歴や功績、ご家族や病気について調べてみました。
早速見ていきましょう。
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元サッカー木之本興三の経歴と病気は?
木之本興三(きのもと こうぞう)さんは1949年1月8日に千葉県千葉市に生まれます。
中学時代からサッカーを始め、千葉高校そして東京教育大学(現在の筑波大学)へと進学しています。
大学ではキャプテンを務め、チームを全日本大学サッカー選手権優勝へ導いています。
大学卒業後は実業団でも名門の古河電工サッカー部に入部します。
引用元:http://blog.goo.ne.jp/goodmiwatya/e/b42de948b362dba6431c8ca69e974427
その時の監督が初代のJリーグチェアマンとなる川淵三郎さんでした。そしてここには日本人で初のプロ選手となった奥寺康彦さんもいました。
そんな環境の中で練習を始めて2年が過ぎていました。
1975年3月、練習を始めた木之本さんは突然吐血をしてしまいます。
このときの様子をこう語っています。
「痛いとかでは全然なくて、真っ赤な血がぱっと手にいっぱい広がったんです。『何だ、これ?』と思いました。そして、『あっ、何かなっちゃった』と思いましたね。
これが初めてあらわれた”グッドパスチャー症候群”の症状でした。
このとき木之本さんは26歳。
グッドパスチャー症候群とは肺や腎臓を侵す病気で治療をしないでいると90%以上が死にいたるというものです。
結局は治療として腎臓を2つとも摘出することになっしまうのでした。
それによって一週間に3回の人工透析が欠かせなくなったのです。そしてこの病気が原因で同じ年に引退を発表しています。
このときの気持ちはもう絶望意外になかったことでしょう。
サッカーに情熱のすべてをささげた人になんという仕打をするのか。現実は実に皮肉なものです。
それでも日本にプロサッカーリーグを設立させたいという夢が木之本さんを奮い立たせたのでした。
そんな木之本さんも1983年には古河電工を退社して、日本サッカーリーグ(JSL)の事務局長としてJリーグ(日本プロサッカーリーグ)結成に向けて動き出します。
Jリーグ足後は社団法人日本プロサッカーリーグ理事や関連会社の社長を兼務していました。
また、ワールドカップ2002年大会では日本代表の団長となっています。
ですが同じ年に今度は閉塞性血栓性血管炎(バージャー病)にかかってしまいます。
主な症状は脚の動脈が炎症を起こすことで血流障害を起こすのですが、木之本さんの場合は治療のために何度も入退院を繰り返しました。
その結果は思わしいものではなく、両足切断というなんともむごい結果になってしまったのです。
2003年のJリーグ専務理事退任後は車椅子の生活をしながらも、2008年からクラブチームno
「アブレイズ千葉」の代表になっています。
その他にも企画会社などを経営されていたといいます。
このときサッカーに対する情熱は、まだまだ健在のようでした。
ところが2017年はじめの検査では良好とされながらも、体調が急変して1月15日午後3時38分に千葉大学医学部附属病院でお亡くなりになりました。
享年68歳、病名はうっ血性心不全でした。
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家族や息子・残した名言も
木之本興三さんは結婚していました。
古河電工に入社して2年後の197年1月に同僚の小川広美さんと結婚されています。
なんと職場結婚だったんですね。
ですからあの病気が発覚するわずか2か月前のことでした。
ということは、木之本さんが病気になり体調を崩したときはもちろんのこと、手術したあとも奥さんが支えてくれていたことになります。
さらに両足切断の時はどうだったのでしょうか?
やはりこのときも奥さんが協力してくれたこらこそ、力強く進むことができたのかもしれませんね。
奥さんのいらっしゃる方は意外と多くの 場面で助けてもらっているのではありませんか?
私なんかもそんな時が何度もあったと思うのですが、普段一緒にいると案外気づかないこと…があるはずです。
その木之本さんに子供さんはいらっしゃるのでしょうか?
結婚されていたので、いる可能性は高いと思われます。
だとすればもう成人されているかもしれませんね。
子供さんは息子さんなのか娘さんなのかはわかりませんが、もしかしたら木之本さんのお仕事を継がれて入り可能性もあります。
生前の木之本さんの発言の中でもっとも強烈だったのは、2014年のワールドカップブラジル大会の日本チームのあり方ではないでしょうか。
選手たちが自分の実力を過信するような発言が出ていた中、2敗1分で1次リーグを敗退したチームにむけたものです。
「93年にJリーグがスタートし、98年フランス大会で初のW杯出場を果たして以来、日本代表は5大会連続でW杯の桧舞台を踏んでいます。日本サッカーは、間違いなく進歩しています。しかしながら、それ以上の速さで世界のサッカーもレベルアップしています。誰もが、そのことをブラジルW杯で痛感させられたと思います。おごらず、謙虚な姿勢を忘れず、不断の努力を続けていく。そうしないと日本サッカーの未来はありません」
この言葉を選手一人ひとりがしっかりと受け止め、毎日の練習に臨んでほしいと思います。
日本サッカーに捧げた両足 [ 木之本興三 ]
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まとめ
今回は2017年1月15日に亡くなられた元サッカー選手の木之本興三についてでした。
経歴を調べていると相当な苦労をされたようですね。
一時期、川淵三郎さんとの問題もありましたが、それすらはねのける強さがあったと思います。
自分を良く見せたりしない一生懸命さを感じました。
木之本さんが亡くなられたことはとても残念ではありますが、心よりご冥福をお祈りいたします。
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